第1回釜山通信 李周鎬

「取り戻す」

  本来なら母語になるはずであった朝鮮語を「取り戻しに行くんじゃ」との固い決意で、ここ釜山にやって来た。がしかし다음날되면오른쪽에서왼쪽으로KTX철엄シュッ하나도없어요(次の日になると右から左へ、KTXみたいにシュッと。あとは何にも残らない)」と、授業が始まる前からこんな言い訳を用意しているようでは、「取り戻す」との心意気も大分怪しいのであるが。

  そんな李周鎬の韓国留学のあれこれを暫くの間、釜山から届ける予定。今回はその第一便。

 

고시원(コシウォン、下宿)

   2/23に釜山港に上陸して、3/4から春学期の授業開始。それからほぼ1か月経ったところ。

 釜山大学言語教育院というのが、お世話になっている留学先。そして宿はといえば、고시원という賄い付きの下宿。下宿代は月額約4万円。韓国にはこうした下宿が多いと聞く。釜山大学周辺にもたくさんある。毎朝8:40ぐらいになると、9時の授業開始に合わせて、我が下宿近辺のあちらこちらからそれらしい若者が出て来る。

  ところで賄い付きといっても、毎日三度三度食事が提供される訳ではない。他の下宿は知らないが、世話になっている下宿では、管理人が作り置きしているおかずが一品程度(寸胴鍋かでかいタッパにドンと仕込んでいる)あって、下宿の住人が好きな時間に厨房兼食堂(4人居ると狭く感じる広さ)にやって来て、銘々食べるというやり方。そこで食べる者もいれば、部屋に持ち帰る者も。あるいは自分で買って来た食材を調理して好きなものを食べる者もいる。おかずとは別にキムチはいつでも何種類か作り置きがある。ご飯も炊飯器に用意されているが、時には蓋を開けたら空だったということも。そういう時は素直に諦めてその人が炊くというのがルールらしい。

  下宿がここに決まるまでには二転三転あったがそれは省略。ただ、異国の地(私にとってここはやはり他郷)で受けた親切は余計に身に沁みた。そのことだけは付しておく。

 釜山上陸の翌日、入るはずだった学生寮を断らざる得なくなった。そこで急遽この下宿に。そうしたバタバタの為に、寝具を買いに行く時間もなくなり、その日は夜具もなしに寝る羽目になりかけた。その時、김언주씨(キムオンジュさん)が黙って布団やら毛布を持って来てくれた。彼は管理人の補佐「総務」だと自分で言っていた。捨てる神あれば拾う神あり。有り難かった。え借りた布団・毛布はどうしたと?いまだに愛用中。

 

多様なクラス

  クラス分けテストの結果、予想通り期待通りに初級(入門に毛の生えた程度)のクラスに。この春学期は4クラス編成。私のいるクラスは15名でスタートしたが、2週目に台湾出身の女性が他クラスから突然転入して来た(理由は不明)。それで現在は16名でお勉強中。

 出身地の内訳はというと中国が6名、モンゴルが3名、ベトナムと台湾が各2名。あとはテオというドイツ出身(連れ合いさんが韓国人だとか)が1名と、ジャフラというイラン出身の女性が1人。彼女は1週目の間は授業以外のことで、何か心配事を抱えていたようで、授業中も心ここにあらずの様子。そのためか授業を休んだり、遅刻したりが続いたが、2週目に入ると落ち着きを見せ始めた。しかし彼女の朝鮮語能力はクラス内でも12である。NHKラジオ講座歴2年の私より余程うまいし、理解も進んでるようだ。そこで訊いてみると、学習歴は「1週間」との返事。「ホンマかいな」とは思ったが、英語も喋れるようだし、世の中には信じられないくらいの語学能力を持っている者もいるようなんで、私はただ頭垂れるしかなかった。아이고!(アイゴ!)

 で在日の私が一人と。それで16名。男女比率は106で男性が多い。

 新入生は初級クラス全体で60名前後いるようだが、出身別の割合は我がクラスと同じように見える。つまり、中国出身者が全体でも半数近く占めていると思われる。そういえば、下宿周辺の식당(シクタン、食堂)にも中華料理屋が目立つ。

 日本人というか日本語話者は20代ぐらいの女性が3人。外国人登録の合同説明会の時新入生が集まった。中国語、ベトナム語と続いて最後に日本語の説明があった。その時集まったのが私とその3人の女性だったんで判明した。ただ彼女達は初級クラスにはいない。

  なに?年齢構成だと。聞くんじゃない、と言いたいが、一応紹介しておく。大多数は20代そこそこの人たち。テオが確か30代。で私が1人孤峰の如く並み外れている年齢。訊かれれば「30代後半です」と答えてやろうと思っていたが、誰も訊いてくれないので、折角暗記したその朝鮮語も塩漬けのまま。

 授業初日、席はそれぞれが好きなところに座っていた。私は出入り口近くに空いていた席を確保したが、隣の席からフルーツの人工的な匂いが漂って来た。それでひょいと見てみると、隣の女の子がモグモグと何やらお食べになっており、匂いはそこからだった。机の上の袋を見ると「コロロ」と片仮名で商品名が書いてある。授業で分かったことだが、その娘さんは中国出身の17歳だそうな。中国出身の若い人が韓国に語学留学に来て、日本のお菓子を食べている。人間と物の移動が広範囲に及んでいることを実感。

 

ワシは何者?

  伏線はその日の授業の中で既に見え隠れしていた。第1週目、慣らしの母音・子音・パッチムの学習に続いて第1課に入る。第1課の表題は「안녕하세요?アンニョンハセヨ?」である。自己紹介を兼ねているんだろう。予習でパラパラと教科書をめくってみると、各国の国旗の写真がいくつも載っている。どうやら「国別」で出身を言わせて、自己紹介をさせるんだろう。そして眺めているうちに「こりゃあ来るな」との予感。

  全朝教の全国大会での実践発表であったと記憶し

ているが、中学の英語の授業で起きたことだ。「あなたは何人ですか?」との教師の質問に、生徒が「〇〇人です」と答えていく。そうしたやり取りをする授業で起きた事件。質問された生徒たちは次々と、そして当たり前のように「日本人です」と答えていく。そしてクラスにいた在日韓国人生徒の番になった。その生徒は在日であることを隠している。さあ困った。「在日韓国人です」とは口が裂けても言えない。かと言って「日本人です」とも言えない。その生徒は答えられないまま立ち往生してしまった。

 実践発表はその授業の問題点とその後の対応についてであったように覚えている。私は釜山でそのことを思い出した。

  実はクラスでは改めての自己紹介というものがなく、いきなり授業に入った。私の場合自己紹介に少々時間が要るのだが、その時間がないまま授業本番に。

で案の定、授業は国旗が載っているページを開いて、「私は〇〇人です」と「国名」で自己紹介させる展開となった。

 私は隠してはいないが、他のクラスメートにどう話せば通じるだろうか。母語が喋れん在日の事をどう言えば彼等に通じるんだろうか。しかし実は下宿では既に通じることが分かっていた。何人か挨拶を交わした下宿の韓国人には〝チェイルキョッポ、在日喬胞〟で通じた。皆さん〝ああっ〟という反応だった。しかし、中国やベトナムの若い人達にはどうだろうか。あるいは韓国人の先生の前で「韓国人です」と言い切ることができるだろうか。そんな思いが頭の中を駆け回る。そうしている間にも他の生徒は次々と答えていく。自己紹介の時間は概ね20秒程度。

 実は、自己紹介が別途設けられている場合を想定してその準備はしていた。それを教科書にメモ書きしていたのだ。「韓国人です」と言いながら何故初級クラスにいるのか。「日本から来ました」と言いながら、「しかし日本人ではありません」などなど。そんなことをごく簡単にメモ書きしていた。しかしそれでも20秒程度ではとてもすまない。かと言って私一人だけが時間を取らせる訳にもいかんなと。授業は上の空でそんなことを考え続けていた。先生が何とはなしに私の方を気にしているようにも見える。

 そして私の番に。「韓国人です。しかし日本から来

」。確かそんなことを言ったと思う。時間にすれば皆さんと同じぐらいで終わったはずだ。直前までどう言おうかとそればかりか考えていたのに、では実際には何と言ったのかうろ覚え。おかしなもんだ。先生も困ったのか、次のページにも「国別」による簡単な会話が続くのだが、そのページ丸ごと飛ばしてしまった。何故かは分からない。これを配慮というんだろうか。

  「国」や「国旗」を背負わせてものを言わせる授業は止めたがいいんじゃないか、それがこの単元を終えての私の感想。例えば、ウィグル自治区出身の留学生が来たら何と言うんだろうか。台湾出身の生徒「대만テマン、台湾」と言っていた。教科書の写真には「中国」はあるが「台湾」の「国旗」はない。しかし休憩時間中、中国出身者と台湾出身者が盛んに「中国語」で喋っている。中国語は地域差が大きく国内であってもなかなか通じにくいと聞いていたが、彼らは通じるんだろう、聞き返すこともなくやり取りしている。そして互いに「国」の呼称については気にかけている様子は見られない(3月も終わりになる頃、語学学校の卒業生でたまたま香港から遊びに来た人に聞くと、筆記は差があるが、話し言葉はそれ程の違いはないとのこと)。いずれにせよ、語学研修で「国」やら「国旗」を持ち出すのは変えた方がいいのでは。機会があれば先生に言って見よう。そしてこれは伏線であった。

  授業で必要なノートを購入するように、と先生から指示。見本として手にかざしたのが赤と黄色の表紙のノート。原稿用紙型ノート(원거지노트ウォンゴジノトゥ)であった。そしてどこで手に入るか、その文具店の場所の説明もあった。その文具店には以前たまたまシャーペンの芯などを買いに行ったことがあったので、場所はすぐに理解できた。

 放課後(12:50に終了)、早速その文具店に行った。ノートがどこにあるかウロウロ探すより、直接訊いた方が早いと思い、レジカウンターにいた店主の連れ合いさんと思われる女性に尋ねた。彼女に「원거지노트 가있어요?」と尋ねると、奥の商品棚に行って持って来てくれた。ところが表紙の色が違う。そこで「赤の」と問うと、また奥に行き別のノートを持って来た。しかしそれも表紙が違う。彼女が「中身は同じだ」というような意味のことを言ったので、それではと思いお金を払ってお釣りを待っていた。そこにテオがノートを手にしてやって来た。見ると例のノートであった。彼がいつから店にいたのか分からないが、自分で見つけたようだ。そこで私はテオにノートのある場所を訊いてそこに向かった。その時である。レジカウンターの彼女の声が私の背中から聞こえて来た。「イルボンサラム」と。彼女は店内に戻って来た店主にそう話しかけていたのだ。私がはっきりと聞き取れたのは「イルボンサラム」だけであったが、彼女とのそれまでのやり取りとを合わせて推測するに、「日本人だからよ。中身は同じだと説明しているのに、表紙の色が違うからどうのこうのグズグズ言っている。日本人だから」。そんなことを言っていたんだと思う。これは私の全くの当て推理ではあるが、「イルボンサラム」の言葉とその場の雰囲気からみて、大きくは違ってないはずだ。

  「イルボンサラム」かぁ。思いもかけない所、思いもしなかった状況でそれを耳にしてしまった。「イルボンサラム」。その言葉がスッと突き刺さって、気持ちが一気にザラついた。こんな台詞をこんな所で聞くとはな。「イルボンサラム」が、「横並び」つまり皆と同じようにしないと安心できない日本人というステレオタイプの見方から出た言葉であるとしたら、それは全くの的外れなんだが。私は「横並び」とは無縁な人間だと自分では思っている。それが「イルボンサラム」ねぇ。だから彼女の「イルボンサラム」なる誤解と偏見に私は二重の意味でガックリ来た。

  私の娘が大学在学中に、夏休みだったか短期の交換的な形で韓国に行ったことがある。娘にとっては父方の御先祖の地を初めて訪れることであった。そこで知り合った韓国人学生だかに娘は一生懸命アッパ(父ちゃん)のことを話したそうだ。言葉は喋れないし、韓国にいるはずの親族との往き来もない。しかし在日朝鮮人として必死になって生きている。そんなことを話したようだ。

 しかし、その学生は「お前の父親は韓国人ではない」と。娘にとって父親を否定されることは自分をも否定されることだ。保育園から李を名乗り、式の度に日の丸・君が代の圧力がかかる中、起立を拒否し斉唱を拒んできた。同調圧力の包囲の中、周りの者と異なることを続けるのに不安や恐れもあったろうに。しかしアッパのことを思って耐えて来たんだろうと思う。

 そうやって父親と子どもたち3人で作って来たものが「お前の父親は韓国人ではない」の一言で全否定された。娘にとってはそういう言葉だったんだろう。悔しくて悔しくて涙が止まらなかったそうだ。その悔しさが、その後の韓国留学を決意させることになる。大学3年を終了した後ソウルに行き、語学堂で2年間勉強して帰って来た。卒業後は大学院に進むが、外国語の受験は朝鮮語で受けるまでになっていた。

   閑話休題。父親の私はというと、文具店で「否定」の言葉を聞いてしまった。それもたかだかノート1冊買う時の女性の勘違い・偏見から出てきた「イルボンサラム」。娘とは違ってえらく情けない状況でのことではあったが、私の気持ちを重くさせるには充分だった。

 ある人が我が息子と娘にこう言ったんだそうだ。「あなたたちは世間の常識に背を向けて生きて来たアッパに育てられたから」と。在日であることを否定しているのではない。これは世事的なことについては社会常識から大分外れているアッパを反面教師としなさいという、子どもたちへのその人らしい忠告であった。言われている私自身もそうだろうなと思っている。とまあそれぐらい「横並び」が嫌いというかできない私にとって、「横並び」だから「イルボンサラム」だというのは二重に受け入れ難いものだった。

   やっぱり「顔」だけでは駄目か。「アンタは名刺不要。顔で在日と分かる。顔判だ」とよく言われて来た。しかし顔だけでいえば似たようなのがここ韓国にはゴロゴロ居るわけで(当たり前だが)。「在日喬胞」なら喋れて当たり前と思われているここ韓国でハングマルが喋れないというのはこういうことなんだろう。しかしその苦さは取りあえず腹に納めておくしかない。

 

ところで店の彼女の十把一絡げの日本人観、いつかお返しをしたいが。そのステレオタイプはどこから来たものか、あるいは私が在日朝鮮人であることなどいつか彼女と話をして見たいが。う〜ん、留学が終わるまでにそんな日が来るだろうか。いやいや、それより心配なことは彼女が「イルボンサラム」のオッさんのことなどもうとっくに忘れていることだ。付記  3.1」のことは次回に。